ねっとりとネット

ねっとりとこびりついた「ねっとり」をねっとりと、ネットへくっつけるネット。

『ねっとりとネット』設計図

【『ねっとりとネット』とは?】

【スローガン】

心、頭、体にねっとりとこびりついた「ねっとり」をねっとりと、ネットへくっつける。

 

【説明】

アート、デザイン、カルチャー、サブカルチャー、カウンターカルチャーetc…なんでもありノンジャンルのそれぞれにクリエイティブな溜まり場的シェアブログ。

 

 

 

おおぬ菌が運営・ライター・編集を行うシェアブログ。

 ぼく自身は美術館に行った訪問記や日常のメモ、投資状況の記事を主に書いています。ブロガーと言えるのかは謎です。笑

 

シェアブログとは何か?

 「シェアハウス」を想像してもうとわかりやすいと思います。

ひとつの住宅を複数の住人でシェアして、キッチンや風呂・トイレなどを共同で使って生活するスタイルです。シャアブログにとってライターは住人そのもの。そして、それぞれが記事を書くことで、このシェアブログは成り立ちます。シェアハウスの住人がそれぞれの役割(掃除、調理、ゴミ捨てetc...)をきちんと行うことで生活が成り立つように。

 けれど、仮に住人が居なくたってもぼくはひとりで「ねっとりとネット」で生活を続けます。寂しいことを言うようですけれども。

 

なぜ、シェアブログを始めたのか?

 「誰しも何かしらの想いが溜まっていて、そしてそれを文章に書きたい想いがあるじゃなのかな?」と考えるようになったからです。

つまり、みんな『心、頭、体にねっとりとこびりついた「ねっとり」』があるんじゃないかな?って思ったんです。それは、ぼく自身がそうだったからです。

別のところでもブログを書いていたけど、そこはぼくの日記でした。それじゃあちょっと物足りなくなった。日記よりも何かしら伝えたい情報がある文章を書きたくなったんです。

 それに人々の会話やコミュニケーションが簡単にそして軽々と行えるようになったのも一因だと思います。空気より軽いボールでキャッチボールをするように。まとまった考えを聞くほど現代人は暇じゃ無いみたいです。みんな妖怪コイソガシジジイに取り憑かれています。

 

 更には重要なのは「執筆欲求が高い人間が存在する」ことを発見したことです。性欲が高くていつもムラムラしていたり、自傷行為に明け暮れるメンヘラのように、文章を書くことで落ち着いたり、エクスタシーを感じたり、幸せになったりするのだ(少し大袈裟ですね。笑)。これは人間ならではの欲求ではないかと思います。言葉が喋れて文字が書ける。

 けれども、普段生活していたら、そう思ってもなかなか実行に到らない。実行したとしても続かない。

 

なぜか?

 文章を書くことは「登山」のようであって、「登山」のようにはいかないからだ。つまり、大変だからだ。

 もちろん、登山も大変です。場合によっては命を落としかねない。険しい道のりを登って、山の頂上に到達しても、自分の足で降らなくてはならない。こんな大変な事は無いですよね。でも、苦労して登るからこそ、頂上で観る景色は美しいし、達成感は計り知れない。仲間と登っていれば、その感動を共有できる(ぼくは登山をしたことが無いですが。笑)。

しかし、文章を書くことに「頂上」は無い。ひとつの文章を書き終えても、それは終着点ではなくて、新たな登山の始まりです。ゴールが無いし、答えが無いからだ。こんな文章で良いのかな?と不安になる。遭難したら遭難しっ放しで、誰も助けには来てくれません。だからこそ文章を書くことは楽しいと言える。

 

 でも、そんな面倒臭くて大変なことは自分ひとりで行うのはしんどい。カラオケやボーリングのような娯楽のように仲間を誘って簡単に行けるものでは無くて、孤独なアクティビティです。グローブをぶら下げたバットを担いで「磯野、野球しようぜっ!」と誘うようにはいかない。

 ライターになるほどの技術や自信は無いし、個人のブログだと結局のところ日記になってしまう。けれど、ぼくたちは文章を書くことを楽しみにしたい。ヒッピーがコミューンを作ってそれなりにハッピーに暮らすように、文章を書きたい人を集めて何かしたくなったんです。矛盾するけれども「磯野、文章書こうぜっ」のノリです。ぼくはお誘いをして、空き地を提供する。

 ブログの形式を取っているのは「公開」することに意味があるからです。誰か他人が読むことを(一応)意識することで文章に緊張感が生まれるからです。

 

 シェアブログはコミュニティである。

 シェアブログの住人(ライター)同士が読者であり筆者です。「確実な読者がいる」と云うのは安心するし、嬉しいことだ。

 「トキワ荘」 的なところがあると思います。漫画家である手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫が暮らしていた木造アパートだ。お互いに切磋琢磨して面白い漫画を書いていた。そんな熱気が「ねっとりとネット」にも出れば素晴らしい。

 もしくは、「ねっとりとネット」と言う出版社が発行している「ねっとりとネット」と言うひとつの雑誌かもしれない。

 (『ガロ』や『イトイ新聞』かもしれない)

 なんでも良いけどゆるい共同体なんです。

 

 ぼくはライターであり読者であり、さらに各ライターの記事の共同生産者だ。

  ある意味で「ねっとりとネット」の記事は、公開のぼくとライターの交換日記なものかもしれません。なぜなら、ライターにとってぼくが第一読者であり絶対的な読者であるからだ。

 特定の読者を想定するのは難しい。なので、ライターには「ぼくに知らせるつもりで記事を書いてくれれば良い」と言って執筆依頼をしています。個人的な日々のリアクションを文章にしてくれれば良い。リアクション芸人がザリガニで鼻を挟まれたときに体で表現にするように、ライターはもしザリガニに鼻を挟まれたら文章で、そのリアクションをとってくれれば良い。それくらいラフな感覚で記事を書くことを続けて欲しいからです。締め切り無し!文字制限無し!掲載制限無し!(月に1記事は書いて欲しいけど)。

 なぜなら、ライターと個人的なつながりを強くしたい、という思いがあるからです。友達以上恋人未満の関係。リアルでもネットでも友達なのです。

 ライターとはネットだけでなくリアルでも友人の場合が多くなると思う。執筆依頼をする場合、その人のことをぼくが独断と偏見で偏愛している必要があるからだ。たとえ仲良くなって偏愛できたとしても、その人が文章を書きたい人間とは限らない。

 

じゃぁ、ぼくは誰の為に書いているのと言えば、完全にぼく個人のためだ。

 とは言え、ぼくはぼくの為に「ねっとりとネット」に記事を書いています。

ぼくはぼくで『心、頭、体にねっとりとこびりついた「ねっとり」をねっとりと、ネットへくっつける。』行為をしたいからだ。これはぼくにとって筋肉を動かすエクササイズであり、リラックスするヨガのようでもあります。つまり、文章を書くことで思考が活性化され、考えていることがクリアになり精神衛生上とても良い。

 しかし、文章を書いているからと言って「何らかの答えを出したいわけでは無い」

断定したり、勝手に決めつけたくは無い。多分、ひとつの記事を書き終わるごとに記憶の結晶が出来上がる。それと、あるひとつの物差しが出来上がる。物事に対してのぼくの物差しが明確になる。けれどもそれは確固たる物差しではくて、形状記憶合金でありながら柔軟性に優れた粘土のような「物差し」です。新たな事柄にもリベラルに対応できるように。「ねっとりとネット」もそんな存在であれば良いなぁ、と思います。

 

 

 

それではお先に(失礼します)。
2019.10.18 (fri) 「ねっとりとネット」ができて半年経ちました。現在地を示します。

おおぬ菌

 

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