さて、
このグチョグチョに腐りきった、膿まくっった社会は終わらせて、次の新しい世界を目指そう。
『私は私のままで生きることにした』
キム スヒョン
これからを「私のままで生きていく」ための言葉と知識が詰まった個人主義のすすめ。
『私は私のままで生きることにした』キム スヒョンを読んで僕が考えたこと。噛み砕いたり、引用を自分の言葉にしたりまるパクったりの感想。
このグチョグチョに腐りきった、膿まくっった社会は終わらせて、次の新しい世界を目指そう。
韓国は日本の鏡だ。
韓国の状況を見ればそのまま日本が見えて、日本が分かる。
どちらの国も「寄り道が許されない社会」だ。
それは下校時に変質者が出るから道草を食わずにさっさと真っ直ぐ家に帰んなさい、と言うのではなく(それもあるかもしれないけど)、進学・卒業・入社・昇進・恋愛・結婚・家庭作りなどなど。そう言った将来設計のレール、パターンから外れて寄り道をする者があれば許さない、除外する社会だと言う意味です。
不登校、自主休学、理由はどうであれ学校を一定期間休むこと。就職を遅らせること。結婚せずに独り身でいることなどなど。とにかく誰かが決めた理想的(であるとされている)道から外れてはおしまい。と言う考え。
そして「自殺率の高さ」
具体的な数字やリアルは僕には変わりませんがニュースになりますね。
他にもたくさん問題はあるけれど、これらが原因でもあって結果でもあって、お互いに負のスパイラルとなってドンドン悪い方に向かっている。
そのことに社会が充分にいきづまり、窒息寸前。人々は閉塞感に身動きが取れなくなって、さらに自分の殻に閉じこもってはネットに入り浸り、見えない仮面を被り、見えない炎上、見えない殺傷を同時多発・連続で起こし続けて、完全に麻痺っている。
つまり、韓国でも日本でも「個人が個人のままで生きていくことができない」。
けれどそんなことは当たり前だ。
そもそもやるべきことと押し付けられて本当は別に誰にとってもやるべきことではないことをやっていた人。人によっては全く疑問もなくやっていた、洗脳を受けていた、もっと言えばそんなんこと考えず思考が止まっていた。そして今日も慌ただしく過ぎる日常を消費して、ボロ雑巾よりもヨレヨレに疲れ切っている。そんな僕らが「個人が個人のままで生きていくこと」なんてできるはずがない。
現代を生きていく、生き抜くことは韓国人にとっても日本人にとっても、全然簡単なことじゃない。むしろすごく難易度が高い。
レールに乗っていたって、そのレールがどこまで続いているのかなんて誰にも分からない。いや、先なんてないことは誰もが薄々に気がついている。
私は私のままで生きる。僕は僕のままで生きる。ためには時間がかかる。
たった今、変わって、明日から私は私のままになれるのではない。
だって、私を僕を失っていた、押し殺していた時間はどれだけあったと思う?
例えば小学校入学から大学卒業の間の時間だとすると、
小学校6年間+中学校3年間+高校3年間+大学年4間=16年
(僕なんか浪人1年しているので17年間!?)
そんな牢獄からいきなり出たらコンビニでおにぎりの買い方も、電車の乗り方だって分からない。詰まる所、自分の人生の歩き方どころか、自分の人生を歩くのは自分であることも分からない。完全な無知。
当然、何が自分を幸せにするか?なんてチラリとも知らない。情報が溢れる今の社会では大切なものなんか簡単に流されては消える。そして目の前に残るのは泥や下水が混ざった嫌悪の塊のようなヘドロでしかない。
この効率化を求めた社会では、非効率な「自分らしさ」なんか尊重されるどころか悪として扱われる。見向きもされない。
このグチョグチョに腐りきった、膿まくっった社会は終わらせて、次の新しい世界を目指そう。
(もう死語になりつつ「ゆとり世代」の人々が完全にゾンビになってしまう前に)
自分らしく生きていくには、いろいろと体験、経験して模索する中で、自分の頭を使って判断して、自分の力で物事を決めること、そしてその方法を常に学ぶことだ。
僕のどうしようもない学生生活、人生の中にも、ちょっとは自分で判断、決断をして選択した事があったはずだ。顕微鏡でものすごく小さなアメーバを覗くように、自分の心や脳を観る。もしかしたら何にも無いかもしれない。それはそれで仕方ない。ドンマイ。今日から経験し模索していこう。
したい(=Want)と思って、できる(=Can)ことなら行動(=Do)しよう!!We Do!!!
人生でやっちゃいけないこと、危機は「目標や価値や信念に対して自問自答、葛藤、自己探求しないこと」。まずはやっちゃいけないこと、危機は回避しよう、脱け出そうEXIT→
そうしたら自分で選択して、自己責任を持って、自分を信頼して、(培ってこなかった)自尊心を培って、胸を張って生きるんだ。
その過程・日々で怒ったり、悲しんだり、憂鬱になったりする事がある。それはネガティヴではあるけどBADじゃ無い。ずっとHAPPYでいられるなんてことはない。そんなのはマリオのスターと同じで無敵に感じる麻薬的だ。
「幸せ=人生の目的」
の方程式は必ずしも成立しない。幸せであることだけが人生の目的ではない。何があっても、それはそれで自分の人生だあると受け止めたい。
そのためには個人は個人で生きていかなければいけない。つまり個人主義的でなくてはならない。他人の目なんか気にせずに、集団から脱け出そう。
社会とは本来、素敵な個人の集まりであるはずだ。
僕なんか典型的な量産型人間の1人だ。
ゲームにハマる人の気持ち、というか原理はよく分かる。
なぜかと言うと「確実なゴールが設定されているからだ」。
それはそうだ「正解=ゴール」に辿り着くことが正解だと常に「教育=洗脳」を受けていたから。
ゲームは正確なプロセスを踏めばそのうちにクリアすることができる。難しくてクリアできない時でもネットや攻略本を見てしまえば簡単にクリアできる。
ダンションを迷っているように見えてそれは本当のところ迷ってなんかいない。ただ決められたある程度の時間を消費しているだけ。でしかない。
僕はゲームはやらない。そう言った理由を自分なりに分析し、ゲームをする人間を小馬鹿にしているのではなく、単純にゲームが下手くそだからです。僕は運動音痴な方で、実はゲームのも運動神経的な身体性だったり頭脳的な瞬発力が必要なのです。なので苦手を克服するほどゲームに熱中しなかった。
とは言うもののゲームに少しだけ熱中していた時期もあった。
小学校高学年から中学卒業まで。
ゲームすることゲームソフトそのものがクラスメイトと「友達ごっこ」をするために重要なツールだったからです。
同じ制服を着て、同じ学校に通っていることを分かりやすく、仲間であることが分かりやすくするように、そんな感じで同じゲームを持っていれば僕らは一先ずお互いに同じグループ、友達でいられたわけです。
僕はゲームやゲームをする人、ゲーマーを否定しているのではく、ゲームをやっていた時期の僕を批判している。
その時は別にゲームなんて好きでもなかったし、本当に友達が欲しかった訳でもない。ただ寂しさみたいなのもをどこかで黒い歯車のように植え付けられて、同い年の男子と同調するしななかった。それしか考えることができなかった。
そんな自分自身を批判し、バネというか、エネルギーにしている。
end...
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